今って、いつ?

共有する時間は、その相手をマスにしようとそうでなかろうと、それは自分の時間なのだと思う。
話題に上がる誰か、あるいは何かについて語ろうとすれば、その焦点とされる所は、あらかじめ公共の情報から流されたものがほとんどなので、それぞれのメディアの意思によって形作られているだろう。
またその受け取り方も千差万別。
その人の生きてきた背景や、現在の状況によって大きく違ってくる事はいなめない。
コンテンポラリーという言葉があり、かつて写真の流れの中でけっこう話題にされた時代もあったと記憶しているが、その意味する今の事を誰もが強く意識した訳ではなかっただろうし、それがどういう風に大切なのかなんてとこまで思いが至った人は多くはなかったんじゃないかと思う。
同時代のと片付けるには、あまりにくいちがった思考を持つのに、それを見ないふりする一歩離れた観の若者が大勢であるように感じてならないのだ。
我々の若かった時代にヒッピーが現れ、フラワーチャイルドとかで、平和を主張したその事に問題がある訳ではなく、あの時、その主張は衝突を避けようとするものではあったが、衝突をおそれるものではなかった。
時代は今、オレたちはそろそろここから去らなければならない時に至って、伝えたいと思う何かがある。
かつてオレたちは年上から無気力だとか言われた。
だがそれはやみくもに活動する事をよしとした世代とは違って、立ち止まって考える事が出来るようになったという進歩でこそあれ非難されるいわれ等ないことだったのだ。
そしてオレたちはひきこもらなかった。
馬鹿にされ、いいスタンスをとれなくても、コミュニケートする事を捨てようとした訳ではなかった。
いいスタンスをとれなければその場を捨てるというようなけちな了見はない。
米つきバッタになる気もない。

その後、中国で鄧小平が天安門で学生をミンチにした時、毛沢東の思想の歪みを知った。
彼らは遅れてきたものたちだったと知った。
毛沢東語録の表紙の金文字も褪せたと感じたものだった。

そして、この今とは、誰のいつなんだ?
できると信じた事を、できなかったことの堆積が埋めていくのだろうか?
次の世代への愛が伝わらない歯痒さをオレたちの親たちも味わったんだろうか?
今や愛は方法論となり、サービス業の教科書に載る。
無償の愛をどうやって論とするのか?
母を愛して失った、なかでも特にできのわるい子にはそれがわかる。
世の中には頭が悪いからわかるってことだってあるのだ。

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Sea Of Love

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Trip i Bermo

長くて退屈だった?
オレはこの感じが好きなんで。 つくったようになってないところがネ。
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by kato_ashura | 2009-07-03 21:04